ゲームのある日常

ゲームを生涯の趣味にしようと思ったオッサンの独り言。

ゲームの自由度とはなにか、という話(2)

もちろん、上記の記事には重大な問題がある。

「自由」と「自由度」とはまったく別であるということ。

それは確かにその通りである。何かを「する」「しない」を選択できることはそれができない状況と比較しても、明らかに「自由度」が高い。その選択の幅が大きいほど「自由度」は高いことになる。

 

だが、ここでひとつの疑問に行き当たる。

例えば、短編小説集。多くの短編を収録した小説集を買って、好きな作品だけ選んで読む行為は「自由度が高い」ことになるだろうか? 読む読まないの選択は自由だが、結局最終的には収録された作品をすべて読むというゴールにたどり着くことになる。芥川龍之介の短編集を読んでいるのに、そこで夏目漱石が読めるはずもない。だから短編小説集を「自由度の高い小説」などとは誰も言わない。

当たり前だ。

およそそれがどのようなものであれ、表現作品である以上、それは製作者の意図によって決定されているものであり、鑑賞者はどのようにそれを鑑賞しようとも、製作者の意図の範囲を超えて鑑賞することはできないのだから。

 

ただし、鑑賞者に鑑賞される作品に、製作者が意図し想定できない要素がひとつだけある。それは鑑賞者が作品をどのように「解釈」するか、それを決定づけることだ。

 

あらゆる表現作品はそれが制作されたというだけで完結して存在できるものではない。それは鑑賞者によって鑑賞されることで、はじめて表現作品と認識され、存在することが可能になる。ヘンリー・ダーガーの『非現実の王国で』が代表的なアウトサイダー・アートでありうるのは、死後にそれが発見されそれを鑑賞するものが存在するからだ。公表されない創作作品は存在しないのと同義といえる。

製作者が、鑑賞者の「解釈」を誘導することは当然ある。

特にその作品が明確なストーリーを語る場合、鑑賞者はそのストーリーから大きく逸脱した解釈をすることは困難となる。つまり製作者はある程度「解釈」をコントロールできることになる。

しかし製作者にはプレイヤーの「解釈」を限定しない選択も可能である。

ビデオゲームは映像主体の表現作品であり、そこには言語的説明(ストーリー)が不可欠であるわけではない。製作者がその言葉によって制限をしないのなら、そこには「解釈」の「自由度」が発生することになる。絵画や彫刻といった表現様式は、まさに受け手の解釈を鑑賞者に委ねるものであり、それは映像主体のビデオゲームにも可能なことである。

 

ゲームにおける真の「自由度」とは、この「解釈」の自由度ではないだろうか。

例えば、「Journey(風ノ旅ビト)」であったり、上田文人の諸作品であったり。