ゲームのある日常

ゲームを生涯の趣味にしようと思ったオッサンの独り言。

ICOのこと。

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すでに何度も触れている通り、昔、自分はアクション性のあるゲームを大の苦手にしており、殆どプレイすることはなかった。好きなジャンルはコマンド入力制のJRPGシミュレーションゲームで、あるゲームに興味を持っても、それにアクション性があると分かったら絶対に手を出さなかった。

そんなアクション嫌いを克服する最大のきっかけとなったのは『モンスターハンター』だったが、同時期にもうひとつ、アクション性のあるゲームへの考え方に変化をもたらしてくれた作品があった。それが『ICO』だった。

きっかけはテレビCMだったか、当時にしてはあまりゲームらしくない淡い色彩のグラフィックと、あの有名な「この人の手を離さない。僕の魂ごと離してしまう気がするから」というキャッチコピーに強く惹かれ、どんなゲームかもよく知らないまま購入することにした。

ゲームの内容については、いまさらここで説明する必要もないだろう。苦手なアクション系の操作に苦労しながらもゲームに没入し、夢中になって最後までプレイした。クリアしてすぐに2周目のプレイを開始、隠し武器やエンディングの変化などがあることを知るとそれらすべてを体験するために繰り返し繰り返しプレイを続け、最終的には何周したことだろう。もう新たに発見することがなくなってもなお、ただあの世界を歩き回りたいという欲求だけで遊び続けた。

なぜそこまでこの『ICO』というゲームに惹かれたのか。

(結果的には)自分のようなアクション系が苦手なゲーマーでもクリアできるバランスの絶妙さ、テキストに依存しない解釈の自由度の高さ、昔話に登場しそうな繊細で美しいキャラ。それらすべて魅力的だったが、何よりも自分を魅了したのは、このゲームの舞台となる「霧の城」の存在そのものだった。

その名こそいかにもファンタジックな印象だが、「霧の城」のデザイン造形はむしろテンプレート的な中世ヨーロッパ風の意匠とはかけ離れ、まるで近代の要塞や工場を彷彿とさせるものだった。

ICO』をプレイした当時、自分は「廃墟スキー」を自称する程の廃墟ファンだった。毎日ネットで廃墟写真を集めたサイトを巡回し、気に入った廃墟画像を集めてそれを眺めては悦に入っていた。その感覚からすると、「霧の城」はまさに理想的な「廃墟」に見えた。

石造りの建築物はいかにも城らしいが、その城の内部にはいたるところに金属製のパイプやダクトが走り、おそらくは水力を用いているのであろう、クレーンやエレベータのようなギミックがかしこに存在する。ゲーム中に城のことを説明してくれるようなNPCがいるわけでもなく、結果としてそれらのギミックがどのような世界設定に基づいて作られているのか、それこそ「霧の中」のように感じられる。そのことが、「霧の城」の中を探索したい、という強烈な欲求につながったのだろう。いつしか「霧の城」の中を巡ることそのものがゲームをプレイする主目的になっていた。

そんな没入感を大きく高めてくれていたのが、このゲームがアクションアドベンチャーであるという、まさにその事実だった。

ICO』がそのゲーム画面から一切システム表示を排除しているのは有名だが、これに加え、アクション系の操作感覚が、あたかも自分自身が「霧の城」を探索しているような感覚(あるいは連続性)を感じさせる重要な役割を果たしていることに気づいた。

これがもし、コマンド制RPGのようなシステムだったらどうだっただろうか?

霧の城の中を自分自身が探索して回っているような没入感は無粋なコマンド表示で阻害され、おそらくは白けることになっただろう。それは自分自身がその城の中を巡っているという感覚を邪魔し、それがあくまで自分の操作しているゲームでしかないと再認識させる要因にしかならない。それでは「霧の城」での体験が、自分自身の体験ということにはならないのである。

ICO』は、アクションゲームが単にスリルや反射神経を楽しませるためのものというだけでなく、ゲーム内世界に没入させそれを自分自身の経験として感覚させる重要な要素となりうることを自分に認識させてくれたゲームだった。

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ICO』のスイカエンディングは、間違いなく上田文人作品中最高のハッピーエンド。