ゲームのある日常

ゲームを生涯の趣味にしようと思ったオッサンの独り言。

ライフスタイルゲーム遍歴(5)『The Elder Scrolls Ⅳ Oblivion』その1

アクションゲームに苦手意識が強かった頃、特に毛嫌いしていたのがFPSだった。

知人宅で『DOOM』や『Wolfenstein』といった初期のFPSをプレイしているのを傍から見ていてひどく画面酔いしたのがその原因だろう。また、現在でも国産FPSはごく稀だが、当時はほぼ100%海外製であったことも影響していた。当時は洋ゲーに「バランス調整が酷い無理ゲーばっかり」「キャラがバタ臭く世界観に馴染めない」と言った偏見を抱いており、なかば食わず嫌いの状態だった。

そんなFPS洋ゲーへの意識を一気に反転させるきっかけとなった作品、それが『The Elder ScrollsOblivion』だった。

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Oblivion』の存在を知ったのは、当時『モンスターハンター』のプレイ仲間が集まるチャット掲示板で「面白いゲームサイトを見つけた」という話がきっかけだった。

確か『食肉系統』とかいう名前のサイトであったか、まだゲーム実況動画などが普及し始めたその頃、自分のゲームプレイを動画ではなく、スクリーンショットとテキストで構成した記事として掲載しているサイトを結構見かけることがあったが、このサイトもそのひとつだった。

知人から教えてもらったそのサイトを覗くと、なにやらファンタジー系RPGの記事が目についた。プレイヤーキャラが夜中に街の宝石店に侵入して略奪の限りを尽くしたかと思ったら、同行していた黄色いとんがり帽子のような変な髪型の小柄なNPCに因縁つけて殺してしまい、その死体を宝石が収まっていたショーケースに押し込んで立ち去る……だいたいそんな内容だったことを覚えている。

気に入らないからという理由で同行するNPCを殺してしまうのもどうかと呆れもしたが、当時の自分にとっては、RPGと言えばまずJRPGのことであり、プレイヤーキャラがそんなフリーダム(あるいはカオス)な行動のできるRPGなど見たこともなく、そのことへの驚きが遥かに勝った。そのゲームこそが『The Elder ScrollsOblivion』だった。

自分を始め、チャットのメンバーたちは皆、俄然『Oblivion』に興味を抱いた。そんな時に話題になったのが、ニコニコ動画にアップされていた『テクテク冒険記』という、『Oblivion』の字幕プレイ動画だった。

 

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 メインシナリオをほっぽらかしにして、魔術師ギルドや盗賊ギルドのクエストを思うがまま自由に進めるプレイスタイル、キャラ造形や戦闘システムを改良するMODを導入するなど、その動画は『Oblivion』というゲームの魅力を余すことなく伝えており、ついに、何人ものチャットメンバーが『Oblivion』を購入し始めた。

自分はと言えば、なかなか踏み切れずにいた。

確かにとても面白そうなゲームではあるが、基本的には食指の動かない洋ゲー、しかもシステムはFPSである(任意でTPSにも切り替えられるとは言え)。それに、動画のような自由度を楽しむにはMODというものの導入が不可欠であり、つまりはPC版でプレイする必要がある。PS3Xbox360で国内版のリリースはあったものの、PC用の国内版は未発売、プレイするにはまず日本語化MODを自力で導入しなければならない。

当時の自分にとってはハードルが高すぎるタイトルであったことは間違いないが、知人たちが相次いで『Oblivion』を購入していくのを目の当たりにし、遂に購入するに至ったのであった。

 

なによりもまず、『Oblivion』の自由度の高さに驚かされた。

Oblivion』以前、国産のRPGで自由度の高いマルチシナリオを導入したタイトルとしては『ウェルトオブ・イストリア』と『ジルオール』という2つの作品を遊んだことがあった。

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『ウェルトオブ・イストリア』は1999年にPS1用タイトルとして発売されたゲームで、自由度の高いシナリオ構成が売りのタイトルだった。シナリオイベントが時系列毎に並んでおり、その中の「キーシナリオ」と呼ばれる重要イベントを選択しなければ、同軸上のイベントを自由にこなせるシステム。しかも同時間軸上の「キーシナリオ」も幾つかあり、その選択でシナリオが分岐していく構造だったと記憶している。

メインシナリオを追わなくても、サブシナリオを進めることで個々のエンディングが見られるマルチシナリオが興味深い作品だった。当時としてはかなり荒いグラフィックが批判されもしたが、それを補ってあまりある作品だった思っている。

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ジルオール』も『ウェルトオブ・イストリア』と同じ1999年の作品

非常に特徴のあるマルチシナリオシステムで、プレイヤーは複数の出発地点からそれぞれ別の出自を持つ主人公のひとり選択、サブイベントをこなしながらストーリーを進めることになるが、やがて物語は収束し、ひとつの結末へと向かう構造になっていた。いちおう、また主人公が世界の命運を担う運命的な存在ではあるが、物語全体を主導するのはNPCであるというのも面白い試みだったと思う。歴史シミュレーションゲームの老舗である(当時の)コーエーらしい作品だった。

 

当時自由度の高いマルチシナリオ作品として評価していた『ジルオール』と『ウェルトオブ・イストリア』だったが、『Oblivion』の自由度は、それらを遥かに凌駕していた。

プレイヤーキャラは帝都の牢獄につながれた囚人としてプレイを開始(後にそれは「The Elder Scrolls」シリーズのお約束的展開と知るが)、思わぬことから皇帝暗殺事件に巻き込まれ、死の間際の皇帝から重要なアミュレットを託される。

ここでメインシナリオをそのまま追うなら、件のアミュレットをある修道院の牧師に届けることになるのだが、それを届けるか否かは、完全にプレイヤーに一任されているのである。つまり、このゲームではメインシナリオすら、プレイヤー自身の選択次第でプレイするか否かが決定される、数あるシナリオの一本に過ぎない。

メインシナリオの他には、この世界に存在する4つのギルドに所属し、それぞれに起こる事件とそれにまつわるクエストを追うサブシナリオが用意されているが、どのサブシナリオをプレイするかは、やはりプレイヤー自身の判断に委ねられている。

そもそもシナリオを追う必要すらない。このゲームの世界には無数の様々なNPCが存在し、それらは皆独自のAIによって個々の生活サイクルを持っている。そしてプレイヤーはそんなNPCたちから様々なクエストを受け、それをプレイすることが可能だ。そんなクエストを探しながら世界を放浪するのも、ひとつの立派なプレイスタイルとなる。

更に言えばクエストを受注する必要すらない。

この世界には人々の住む街や村だけでなく、大小様々な地下迷宮が存在している。中にはふたつの勢力が争い戦っているようなダンジョンなど、それ自体にイベント性のある迷宮も数々存在している。プレイヤーはひたすら、そのダンジョンに潜り敵を屠ってお宝を漁っても良いのだ。

シナリオに依存しないゲーム性というものが成立しうるということ。そんなゲームが存在しているのだという驚きが『Oblivion』にはあった。

だがしかし、このゲームの自由性を真に成立させていたのは、本来ゲームに含まれる要素ではなかった。それが「MOD」の存在である。