ゲームのある日常

ゲームを生涯の趣味にしようと思ったオッサンの独り言。

ゲームにかこつけて自分語りはイタい

それはわかっちゃいるけれどアラ ズッコケタ アッマタ スットンダ、と。

どうしても止められない自己承認欲求ってやつ

それでもお付き合いいただけますなら、続きをどうぞ(自爆

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ようやくゲームの片鱗が見えて来た感のある「Death Stranding」

小島秀夫監督によれば、テーマは「つながり」だという。そしてPV中に語られる敵は「分離過激派」と呼ばれる存在。つながりを拒絶する者たちということらしい。

これを知った時、「Death Stranding」は自分にとってプレイ不可避のタイトルになった。

私は、現実とは「関係」であると考えている。

この世に生まれ落ちた時、私は世界を知らず私も知らない。親によって名前と言葉を与えられ、その関係にあって初めて私は私自身があることを知り、世界との関係を結ぶ。言葉によって作られる関係こそが自分を自分たらしめるものであり、所与のものとしての私は私の内にはない。否応なく、私は他者や他物との関係を持つことで私を常に生成し続け、それは私が言葉を失い私自身を忘れるときまで続くのだろう。現実を生きるとは、つまりその関係を生きることに他ならない。私に固執「オンリーワン」だのとうそぶくのは、この関係を否定し、他者との断絶を作る行為に他ならない。ただ私は他者との関係にあって私を演じていくことでのみ、私たりえるのだから。

こんな風に常日頃考えているところに、このPVである。「つながり」がテーマであり、それを拒絶するものが敵という。

これは興味を持たずにいる方が無理というもの。

まあ、現実を関係に見出す考え方なんて、少し考えれば誰でもたどり着くものだろう。ただ、それをテーマとして全面的に打ち出す作品はあまり知らない。だから自分は小島秀夫監督がこの「Death Stranding」の物語にどのような結末を与えているのかをこの目で見てみたいと思う。

たかがゲームにそんな大げさな、という反応は認めます(自爆