ゲームのある日常

ゲームを生涯の趣味にしようと思ったオッサンの独り言。

グラフィックはビデオゲームの本質ではない?

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いわゆる「レトロゲーマー」の人が最新のゲームを批判するのに用いる常套句のひとつ

「グラフィックはゲームの本質ではない」

ゲームの本質とはゲームとしての楽しさにあり、ゲーム性そのものはグラフィックに影響されるものではないのだから、結果論としてグラフィックはゲームにとって重要なものではない、という主張。

そもそもが「ゲームの本質」云々という考え方それ自体に重大な問題があるのだけど、ここでは置くとして、果たして本当にグラフィックはゲーム性に一切影響を与えないのだろうか?

 

例えば、ファッションの問題に置き換えてみよう。

「服とは体温調節や皮膚の保護のために着るのが

 その本質であって、デザインは本質ではない」

という主張が仮にあったとして、それに納得する人はどれほどいるだろうか?

確かに、服の機能(システム)だけを服を着る目的とするなら、デザイン性などは何の意味も持たないだろう。しかし、一切デザインを気にせずに服を着る人など、まず殆どいないはずだ。なぜなら服には「着飾る」という、もうひとつの重要な要素があるからだ。

 

ゲームの「ゲーム性」と「グラフィック」の関係もこれと同じではないか?

ゲームの「本質」(とやら)はひとつではない。

確かに「遊ぶ」という要素だけを注視するなら、見た目に何の重要性もないということになるだろう。しかしそれは「鑑賞」し「解釈」されるゲームのもうひとつの「本質」を完全に見落とした認識ではないだろうか。

 

かつては、ゲーム機の性能がおのずとグラフィック表示に著しい制約を化し、ゲーム開発者はその制限の中で如何に自由な世界を描写する努力を払うことになった。いわゆるピクセルアートは、そうした制約の上に成立したひとつの様式であり、それがひとつの様式美となったことを否定するつもりはない。

しかし、ハード性能の向上は、ハードのグラフィック表示性能を飛躍的に向上させ、ゲームグラフィックは2Dピクセルの世界から3Dへと飛躍し、日進月歩でその制約の軛から開放されることになる。ここでゲームのグラフィックは制約下の様式から、より自由な表現の可能性へと昇華したといえるだろう。

 

例えば、上田文人作品。

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 彼の作品のようなゲームは、ファミコン時代のようなピクセルグラフィックで成立するだろうか?

例えばPLAYDEADの『LIMBO』や『INSIDE』

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これらの作品は、グラフィック性能の制限に制約を受けたからモノクロ世界で描かれたのか?

例えばPCゲームを中心に人気のある2Dピクセルメトロイドヴァニアタイトル

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これらのタイトルが、なぜこのようなグラフィックのスタイルを採用したのか。

 

ハードの性能の飛躍はゲームグラフィックの限界を取り払い、制約から解き放った。

必要だったからその制約に基づいたグラフィックを工夫することから、今ではそのゲーム性に応じ、必要演出と表現によってグラフィックを選択できる時代になっている。逆に言えば、今やグラフィックはゲームという表現様式を成立させるために能動的に選択し描かれなければいけない、個々のゲームの本質の一部になっているということだ。

 

結論。

ハードの進化はグラフィックを単なる制約下の工夫から、ゲームそのものを描き魅せる必要不可欠な要素となった。現代のゲームにおいてそのグラフィックは本質の一部である。