ゲームのある日常

ゲームを生涯の趣味にしようと思ったオッサンの独り言。

ゲームの自由度とはなにか、という話(1)

ゲームについて語る時、しばしば話題に登るのが「ゲームの自由度」という言葉。

最近はPCやゲーム機の性能が大きく向上し、その処理能力の高さを持ってゲームのシステムや表現の幅が大きく広がっている。データ容量も往年とは比較にならない程巨大なゲームが普通に存在し、その内容も複雑化の一途をたどっている。

オープンワールドというゲームシステムも、いまではごく一般的なものだろう。

広大なワールドマップがシームレスに形成され、その中のあらゆる事象が同時処理され進行する。プレイヤーの行動とは無関係に世界中で時間は流れ、AI制御されたNPCは独自の生活サイクルと行動目的を持って行動している。それはまさに「生きた世界」の表現そのものであり、あたかも「自由な世界」であるかのようにプレイヤーの目に移り、感得される。俺はこの世界の中で自由な存在、どこに行って何をするか、それは俺自身の意志次第なのだ、と。

しかし……果たしてそこは本当に「自由な世界」なのか?

オープンワールドのゲームをプレイする我々は、その「自由」を本当に担保されていると言えるのだろうか?

確かに、ファミコン時代のJRPGのように、決まったシナリオに沿ってストーリーを進行させることしかできないものに比べたら、それははるかに「自由な世界」と呼べるのかもしれない。

だが、その「自由な世界」で冒険するうちに、プレイヤーは必然的に気づくことになるだろう。

どれほど自分が自由に振る舞っているようでも、そのゲームにおいてプレイヤーが行える行動は、すべて製作者の意図の範疇に収まるものであるということに。

アメリカのゲームメーカーBethesda Softworksという会社が制作販売している、The Elder Scrollsという人気RPGシリーズがある。自分は一介のにわかファンでしかないので、シリーズの古参ファンがら絶大な支持を受けているMorrowindは未プレイ、プレイしたのはOblivionSkyrimにとどまるが、このシリーズはプレイの自由度が売りで、実際にプレイヤーの意志によりメインシナリオをクリアしないことも選択も可能となっている。

でも実はそれは単に数多用意されたシナリオイベントのひとつを「選択しない」という、製作者が想定したプレイヤーの行動をそのまま行うことに過ぎない。MODを導入しなければ、メーカーが最初から用意してあるシナリオイベントの数は最初から決まっており、プレイヤーに可能なのは、どのシナリオを選択するか、ということだけ。結局そこには初めから製作者の意図しないことは決して起こりえない。

最近は、シナリオやイベントの自動生成というシステムを導入したタイトルも多いが、それもまた、製作者の意図を超えたイベントが自動生成されるということは起こらない。クラフティングというシステムを持たない、”世界を救う英雄”を演じる(ロールする)という設定のゲームで、いくら創作料理を作って酒屋の主で生きていこうとしてもそれはできない。当たり前のことだが。できるとしたら、それはそういうプレイスタイルを製作者が想定してゲームを制作したに過ぎない。

 

本当に当たり前のことしか言ってないと思わるだろう。

実際にその通り、要はどれほど行動の自由度を歌うオープンワールドでも、マルチシナリオやマルチエンディングを売りにするゲームであっても、やれることは自ずと製作者の意図の範囲に収まるものでしかない。それは小説を通読したり、映画を観終えることと大差ないのである。

では、プレイヤーには結局自由はないということになるのか?

ゲームの自由度など、つまるところ幻想に過ぎないということになるのだろうか?