ゲームのある日常

ゲームを生涯の趣味にしようと思ったオッサンの独り言。

ゲーム恐怖脳の恐怖

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最近気になっているのは、ビデオゲームに対し、過剰な拒絶反応を示す人たちの心理である。ゲームが本当にクソであるかどうかはともかく、子どもの愛好するものを「クソ」呼ばわりするなど、そもそも大人としてどうなのか。以前、子どものゲーム機をへし折ったとツイートして炎上した女性バイオリニストもいたが、彼らがなぜ、そこまでビデオゲームに対して過剰な拒絶反応を示し、それを世の中に公言せずにいられないのか。

ゲームとは一見して、映画やテレビと同じく映像による表現媒体のように思える。実際にそういう要素はあるし、非常に映画やテレビドラマに近しい作品も数多くあることも事実だろう。ただ、ゲームは作品世界に対し鑑賞者が「干渉」(洒落ではなく)できるという、他の表現媒体とは全く違う要素を持っている。

「第4の壁」という言葉があるそうだ。もともとは演劇用語だそうで、舞台と観客席を隔てる目には見えない透明な壁という意味らしい。舞台の上で展開される物語は、現実世界=客席とは別の世界を形作り、本来そこに登場する人物は、その物語世界以外の世界の存在を意識し得ない。だから、舞台と客席の間には、本来決して超えることのできない壁がある、というわけだ。

しかし、演劇作品の中には、その登場人物が「観客」の存在を意識し、それに呼びかけるものもあるという。このことを「第4の壁を超える」と呼ぶという。そのメタ的な行為は演劇における作劇論においてしばしば問題になるらしい。

閑話休題

ゲームを表現作品とするなら、鑑賞者=プレイヤーは、テレビモニターという「第4の壁」を常に超え、その中へ一歩踏み込み、積極的に作品世界に干渉することになる。それは映画や演劇やテレビドラマといった、従来の映像表現作品には決してありえない要素であるばかりか、そもそもがゲームという作品の核ともなるものでもある。「第4の壁」の存在を前提として作られる映画や演劇とはまったくことなる構造がそこにはあることになる。

YouTubeニコニコ動画には数多くの「ゲーム実況」動画が存在する。映画作品などを動画サイトに著作権者の許可なくアップする行為は著作権違反として監視され、著作権者の訴えで違法アップロードされた動画が削除されることも珍しくはない。

しかし、ビデオゲームの「プレイ動画」に関しては、著作権者がそれを権利侵害として訴えるケースはあまり多くない。権利上では明らかにグレーゾーンにある「実況プレイ」の多くが著作権者の多くに「見て見ぬふり」をされ、それどころか、再生数を稼ぐ有名実況者に対して著作権者であるメーカー自体が自身の宣伝として「実況プレイ」動画の制作を依頼することも少なくないということは、ゲームが単に受動的鑑賞作品ではない表現作品であるからだろう。実際のプレイ経験を伴わない鑑賞対象としての「実況プレイ」は、もともとゲームの持つ本質的な「権利」に抵触しないと判断されているものと思われる。

ストーリーへの依存性の高いゲーム作品に対し、メーカーが制限範囲以上の動画を配信することを制限している例もある。これはその作品について、権利者がゲーム中の鑑賞対象となる”物語”の要素を、その作品の核と考えるからだろう。ゲームが「映像表現」のひとつである以上、そうした作品が存在するのも当然であろう。その意味では、常に受動的な鑑賞対象となる映画やドラマと比較し、ゲームそのものの本質とは非常に掴みにくいものとも言えるのかもしれない。

いずれにせよ、多くのゲーム作品は自らがプレイする=積極的主観的にその作品世界に干渉することによって、初めてその核に触れうる表現作品であり、つまり映画や演劇といった旧来の映像表現作品とは本質的に相容れないものと捉えることもできるだろう。

こうした旧来的な映像表現作品に強い親和性を持つ人にとって、ゲームは一見そうした旧来的な映像表現作品と同じように見えながら、その実、プレイヤーの傍でただ鑑賞しても、決してその作品の本質を捉えうるものではないものになるだろう。「プレイ動画」がその視聴層の中心を、同じゲームをプレイした経験のある人に求めているのは、プレイ経験を持たない受動的鑑賞者にとってはその動画を鑑賞しても結果そのゲーム作品を理解することはできない、ということを経験的に理解している製作者が多いからなのかもしれない。

映画のような映像表現作品でありながら、ゲームは自ら主観的積極的にその世界に加担しない限り、その作品世界を根本的に理解できるものではない。旧来的な映像表現作品に親和性を持つ人は、あるいはゲームの映像を傍から見て旧来的な映像作品に対する解釈を試みようとして、その破綻を味わう、という可能性は考えられないだろうか。一見して整然とした映像作品であるにも関わらず、その本質的な意味を把握することができない映像作品。ある意味それは、ワードサラダを読むのと同じ違和感、不快感を受け手に与えるものなのかもしれない。

鑑賞者によっては、ゲームは「意味があるように見えて、決してその意味を理解しえない」ものになっているのではないだろうか。その意味の喪失が、ゲームそのものに対する生理的な恐怖感を煽り、だから彼らはゲームに対し過剰な拒絶感を表すのではないだろうか。」