ゲームのある日常

ゲームを生涯の趣味にしようと思ったオッサンの独り言。

”体験性”の可能性。

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最近、歴史を題材とし、その追体験をテーマとした作品って海外タイトルで増えているよね。第二次世界大戦のドイツでの市民レジスタンを描いたものとか、タイタニック号やロシア海軍のクルスク原潜の沈没を描いたものとか。

どれほど迫真にせまるドキュメンタリーであっても、それが映画やTV番組である限り、視聴者はあくまでそれらの歴史事件に対しては第三者であり、そこで本当に何があったのかをより考察するためには、ただそのような作品を視聴するだけでは限界があると言える。自身が当事者の立場にあって、その現場を目の当たりにできれば、より深い共感や理解を感じさせることもできるかもしれない。そういう意味では、ゲームという表現手法は、従来の映像作品を超える可能性があると見ることができるだろう。

一時期、ウォーキングシミュレータと呼ばれるジャンルのビデオゲームが議論の的になったことがある。ゲーム性を排除し、ただ作られた3Dのマップ上を歩き回るだけのそれらの作品が、果たして「ゲーム」と呼ぶに値するだろうか、という疑問についての議論。

しかし、それはもしかすると描かれtる題材にもよるのかもしれない。ウォーキングシミュレータは、ドキュメンタリー作品にこそふさわしいシステムになりうるような気がする。

 

ゲームの持つ”体験性”が重要な役割を果たすジャンルとしてホラーゲームが挙げられると思っている。どれほどよく出来たホラー映画であっても、それが映画である以上は、観客は「第4の壁」を隔てた客席側から、スクリーンの中の惨劇を安全に見守ることができる。それは観客の安全性を担保する代わりに、映画の描く”恐怖”への没入感の限界を生じせしめているとも言えるだろう。

しかし、ホラーゲームは事情が違う。

ホラーゲームでは、観客は物語世界の中の存在として、「第4の壁」の内側へ足を踏み込むことになる。最終的は虚構と現実という超えがたい障壁が、鑑賞者を物語の惨劇から守ることにはなるが、その恐怖体験はより能動的なものとしてプレイヤーに感得されることになる。

ゲームであればこその”体験性”がより臨場感ある恐怖を鑑賞者に与えるという意味において、ホラーゲームホラー映画を上回っている。だからであろうか、映画におけるホラージャンルの占める比率よりも、ビデオゲームにおけるホラーの占める割合の方が件数的に圧倒的に高いように思われる。

近年のホラーゲームには、ドキュメンタリー性の高いタイトルも目に付くように思える。イタリアに実在した精神病院の廃墟を舞台とする『The Town of Light』や、戒厳令時代の台湾の出来事を描いた『返校』など。つまりそういうタイトルが出てくるのは、ゲームがより鑑賞者の経験性に訴える表現ジャンルであることを示す証左であるとは言えないだろうか?

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